矢作川を知ろう 【矢作川と人】

思い出のある川の眺めを守り、アユが育つことを願う

このページは、矢作川に関わりのある方々にお話を伺い、「語られたままの言葉」を生かして川と人とのつながりをご紹介することを目的として作成しています。

大津建男さん(1940年生まれ)
富田水辺愛護会会長 矢作川漁業協同組合中和支部長

 矢作川にかかる富国橋のすぐ上に「流れの勢いが源氏の武士のように力強い」(現地看板より)ことから「源氏の瀬」と名付けられた瀬があり、カヌーの格好の練習場となっています。
 四十年ほど前、矢作川に清流を取り戻そうと発刊された『月刊矢作川』創刊号(1977年4月号)の表紙を飾ったのも、この瀬で釣りをする人の写真でした。解説に「昔も今も矢作川の象徴」とあります。
 そんな瀬のある地域に住んでおられる大津建男さんは川の景観を守る水辺愛護会の会長、漁業協同組合の支部長として川の活動をしておられます。矢作川研究所も調査の折に大変お世話になってきました。そんな大津さんに、川が一望できるご自宅でお話を伺いました。
(聴き取り:吉橋久美子2018年3月20日 ご自宅にて 撮影は別日)



千貫石まで舟をだしてくださった大津さん



「源氏の瀬」。リオオリンピック/カヌー競技でメダルを獲得した羽根田卓也選手も練習した。


<宿題よりも川遊び>
 川が見えるこの場所に、親父が家を建てました。川が好きだったもんでね。
 小学校の時分はここから広瀬の小学校まで、矢作川を渡って、歩いていきよったですねえ。朝おばあさんが湿らして、叩いて、柔らかくしてくれた藁草履を履いて、着物着て。えーっと30分ぐらいかかったかな。帰りは渡し舟で帰ったこともありました。
 当時自転車でこの奥から通っとった先生があったんです。そうすっと、朝晩通勤途中に、私らが川で遊んでるのがわかるわけだね。「お前あそこで遊んどったじゃないか」「あーあれは、向こうにおった」「これはこっちにおった」ってね〈笑〉。朝学校へ行くと、「おーい大津、お前今日、宿題やってないだろう、立っとれ」ちゅって。そりゃ、宿題やるよりかも、川で遊んどったほうがいいもんですから、あっはは…。しまいごろには、まあ顔見ただけで、「お前、立っとれ」って(笑)。

<キャンプをやっていたら…>
 小学校5年か6年のころ、そこの千貫石っていう大きな石のところでね、キャンプをやったことがあるんです。その時分はテントもなにもないもんですから、運送屋さんから自動車のシートを借りて、ほいで、それを張って寝おったら、夜中に親父、「おーいおーい」って呼ぶもんですから、なんかしらんと思ったら、「水が出るで帰って来い」って。シートは石の上にあげて、持てるもんだけもって家へ戻って、5人ばかで寝たことがあるんですけど。小さい時からそういうことが好きだったねえ。今でも、魚釣りの友達とか、同級生と、昔はこうだったなあ、ああだったなあって楽しく思い出します。




千貫石。大津さんは岩場全体をそう呼んでいたが、「一番大きな石が千貫石かもしれない」。かつては砂地を歩いて行けたが、今はその場所に砂は無く、舟でないと行けない。


<川が見えるように竹を伐る>
 仕事で名古屋におって、退職してから戻ってきたんです。その頃は川が見えないほど竹やぶがあったんですわ。戻る前から少しずつ伐りはじめて、戻ってから本格的に伐りました。すると部落の人も「うちの前も切りたいなあ」っていうようになって、愛護会として伐るようになったんです。
 今はこうやって…(窓を開けてくださった。矢作川が一望できる)。明るくなったね。雪なんか降ると道に竹が倒れて自動車がとまりよったことが時々あったんですわ。でも今それがないからね。
 ただ会員にはもう年取った人もいるもんですから、なんとか現状維持で、竹があまり繁茂しないようにぼちぼちやっていったらいいと思うんだけどね。




<アユが育つ川に>
 僕は川が好きなもんで、漁協の支部長も9年やってきたけど、あんなに釣れていたアユが、年々釣れんくなるね。矢作川の水はね、きれいならば工業や農業、飲み水、そういうもんに使うに非常に有効で、汚さんようにするのがこれから大事だと思うんだけどね、でもそれだけだと魚にはどうかなあ。アユの育つ川にするには、まだまだ研究が必要だなあ…。